名前の由来

当寺の名前である「餘慶山 積善寺」(よけいざん しゃくぜんじ)は、
中国のお経の1つである易経の中にある「積善之家必有二余慶一」からつけられたものだと言われています。
「善行をつみ重ねた家には、必ず思いがけないよい事が起こり、幸福になる。」、「よい行いをすれば、必ずよい報いがある」という意味です。
積善寺の歴史
本寺の開祖は秀山上人(正徳四歳甲午7月上四日寂)です。開創は古く、当初は天台宗に属していたと考えられています。現、上浜町6丁目の小舟神社(おにじんじゃ)の辺りにあり、今の地名にて蓮池というところにありましたが、織田信長の伊勢の乱により兵火にかかり焼失したと伝えられています。
その後、初代秀山代に現在地(津市上浜町1丁目)に移り高田派末となり、現在に至っています。現在の本堂は、第二世輝山(明和三歳戌正月廿二日寂)の代に建立されたものです。
勢陽五鈴遺響より
勢陽五鈴遺響(せいようごれいいきょう)は、伊勢国山田古市の郷土史家である安岡親毅が編纂したもので、天保4年(1833年)に完成した伊勢国(今の三重県)に関する地誌です。
その中に、積善寺について以下のように記されています。
餘慶山積善寺 同處ニアリ高田宗上古ハ大刹ニ乄今ノ地ヨリ西小丹神社ノ小山ノ傍ニアリ
天台宗ニ乄今ノ地ニ移乄改宗ス田圃ノ字ニ蓮池ト云アリ此寺ノ遺跡ナリ
今下部田ノ内ニ餘慶町ト稱スアリ大部田下部田ノ二邑ヨリ割出タル餘慶ノ處ナリ
此寺ノ門前ナルユヘニ餘慶山ト稱ス後世ノ事ニ乄?ト
當寺ノ本尊大佛二軀アリ今四天王寺ノ薬師堂ニ移シ存スト云
(勢陽五鈴遺響. 5 河曲郡 自1ノ巻至4ノ巻,菴芸郡 自1ノ巻至4ノ巻より)
*ここに出てくる大仏ですが、昭和初期まで確かに四天王寺に安置されていたようですが、残念ながら、昭和20年の空襲により、焼失したと伝えられています。
時代考証参考資料
時代考証をするものとして明らかなものは次のものがあります。
勢陽五鈴遺響. 5 河曲郡 自1ノ巻至4ノ巻,菴芸郡 自1ノ巻至4ノ巻
本堂棟札
大工 長谷川一右衛門
長谷川 三九郎
長谷川 吉兵衛
享保13年 申歳 九月十五日
餘慶山 積善寺 主棟 輝山
喚鐘の銘
餘慶山 積善寺
勢州菴芸郡大部田村
正徳元年辛卯歳 黄鐘 甘八日
治工洋住 辻󠄀越後守 種永